逝きし銀幕の面影
北極星を求めていた。
春を待たずに種籾に手を付け、連帯を渇望して得られぬまま、尚もその渇望故に彷徨わずにはいられない。
「淮南子」に次の句がある。
「往古来今これを宙といい、四方上下これを宇という。」
闇を見る事が出来るならば、光を見る事も出来る筈だ。
ただ呼び名が違うだけの事だから。
生まれ年である1990年を起点とし、魂に触れた映画に文芸の細片を衝突離散させ、千変万化の紋様を描き出す心の万華鏡として紹介致します。
その際、如何しても巷に溢れる「引用」についての仔細な注釈を付け加える事になりますが、真に必要なのは、映画史の始源から体得された映像への倫理的感受性に素直に感動する事であります。
栄光もなければ悲劇すら曖昧な時代。
挫折していく希望、兎角この世は兎。
温泉猿は凍えねば飢え死。
自分が自分で赦せるか。
脚下照顧、宇宙へ放つ影送り。
理解の畢竟、心は一つの屋根の月。
忘れようにも思い出せない人生の再上映。